文武両道 臥薪嘗胆

日々の修業や生活の中で考えたことや思ったことを綴っていきます

書道

いきなり攻撃的なこと書きますが。
現代日本って、ほんと字が下手な人が多いですよね。

別に書の技法を外していても、丁寧に書いてる人や工夫してカッコよく書いてる人、かわいく書いてる人はまだいいんですけどね。
明らかに汚い字、雑な字、崩壊してる字を書く人が多すぎる。

基礎教養としての書が失われている

僕はまぁ、他人から字が綺麗だと言われる。
芸術家としての書家レベルではないにしても、特技と言っていいくらいには上手い。
しかし昨年、靖国神社へ参拝し、遊就館で昭和の軍人さんたちの手紙や遺書などを見たときには思った。
昭和前期の水準だと、僕は中の上くらいだろう、と。

現代であれば達筆と言われるであろう字が標準なのだ。
しかも文章自体すばらしくレベルが高い。

そういった物を書いたのは軍人の中でもエリート層だったかもしれないが、少なくとも文学者や書道家ではなかったはずだ。
戦前日本の文化水準がとてつもなく高く、教養が広く基礎とされていたことを感じる。

対して現代日本では、裕福な家庭で育ったであろう高学歴の人たちですら、見るに堪えない字を書いている。

デジタル時代に手による”書”が必要か

 

 

この時代に黒板を板書させてる授業は無駄。データでタブレットに配信するか、写真で撮ればいい。

 

 

文章はパソコンスマホで書けばいいし、情報伝達はメールやLINEでいい。手書きの履歴書とか非効率。文字を書くシチュエーションなどもはやない。

 

 

 

僕は堀江貴文さんとかが言いそうな、こういう先進的な考え方は好きだ。
これからどんどん文字を書く機会は減少し、書字の必要性は薄れていくだろう。

しかし僕は、だからこそ手で字を書く数少ない機会を大事にしてほしいと思っている。

たとえば名前を書くとき。
個人にとっての看板だ。屋号だ。少しはカッコよくしたいと思わないだろうか。

たとえば抱負を書くとき。
そこで書く字は、情報の伝達のための文字ではない。自己表現だ。心を込めて書きたいと思わないだろうか。

丁寧に心を込めて書きさえすれば、技術は要らない・・・か?

絵でも、書でも、音楽でも、よく言われることがある。

「小手先のテクニックにこだわらず、心を込めて表現したものがいい」

なるほど、細かい技法にとらわれ、伝えたい想いや届けたい相手を見失った表現は虚しいかもしれない。

しかしパッションだけでも受け手を感動させることなど出来はしない。
所詮その場限りの真剣さは、修練を積み重ねたものの厚み・重みを持つことはない。

ラクスクラインが言っていたように、

「想いだけでも、力だけでもダメなのです。」

昔と違って日常から手書きする機会が減っているからこそ、習字教室に通うなり、何か書くときに集中して書くなり、意識して練習する機会をつくらねばならない。

道としての書

江戸時代以降、戦の機会が無くなり、明治維新以降、近代兵器に通用せず、実用としてはその存在意義を低下させた武術。

しかし永き年月に練り上げられた高度な技術と精神性は、人を磨く道としてその価値を現代にも保っている。

先進技術に追いやられることで、書もまた、そういう存在になっていくのかと思えば、令和こそ「書道」というものの価値を世に問うていく時代になるのかもしれない。