『わたし、定時で帰ります。』第2話を見て感じる社会問題
ドラマ『わたし、定時で帰ります。』第2話を見て思ったのですが、やはり育児とか介護は「働き方」の問題だけではなくて、家族構成とか地域構造の問題じゃないだろうか。
育休とか定時退社とかも大事やけど、やっぱ父母二人だけで育児とか厳しいねんって。個別のケースは別にして、昔は大多数の家族はワンオペとかしてへんかったはずやろ。
常識を疑え!ていうか今の常識だけで物事をみたらホンマにあかん!
僕はまだ独身で育児や育休について論じる資格もないわけではあるが、寝たきりの祖父の在宅介護は7年やったので思うところはある。
たくさんの方々に支えていただいた在宅介護
祖父の在宅介護では、ヘルパーさんや看護師さん、往診の医師先生、訪問入浴サービスの方々など、たくさんの人に助けていただいた。そうでなければ僕と母だけで仕事をしながら出来たものではなかっただろう。
おかげさまで施設に放り込んで知らんぷりではなく、不自由ながらも家族と過ごせる人間らしい老後と死に方をしてもらえたのではないかと思う。亡くなる数日前に数十分だけ意識が戻って話ができ、「ありがとう」と言ってくれたのが忘れられない。
しかしまだ時期が良かったのだろう。高齢者がどんどん増えるこれからの時代、同じようなサポートが受けられるかは微妙だ。介護業界の体力はずいぶん削られているし、難しいと思う。
全ては分断(核家族化)が問題!
介護・育児問題は、社会制度の援助について議論されることが多いが、そもそも昔は地域社会の助け合いがその役目を負っていたし、かつては3世代4世代が同じ家に住んでいて、親戚も同じ家か近くに住んでいて、家族で協力し合って生きていたはずだ。
子供の世話は両親だけじゃなく祖父母や叔父さん叔母さんも見てくれていただろうし、祖父母の介助・介護も同様、家族全員で少しずつ負担をしていたはずだ。
それが「一人暮らしをして一人前」「一国一城の主、夢のマイホーム」などという不動産業界のマーケティングに踊らされ、効率化を望む大企業の論理に乗せられて若者が都会に流れたり、核家族がスタンダードという風潮になった。
離れて暮らす家族間の助けあいは困難となり、信頼できる地域コミュニティも崩壊した結果、この社会の現状がある、と考える。
企業の利益と個人の幸せを追求するあまり、国の発展や、故郷や地域、家族といったコミュニティを含めた人々の幸福という思考軸を放棄してきた昭和末期から平成という時代の歪みが顕在化しているのが今だと思います。
しかも結局企業の利益も個人の幸せも実現されていないという、笑えない時代でした・・・
温故知新!
とはいえ、僕は「昔はよかった。だから昔に戻ろう」式の論理は好まない。
昔は昔で貧しく、不自由で、理不尽な世の中であっただろうと思う。
東京一極集中による歪みや弊害は明らかなれど、時代の一地点においてそれが効率的であったことは確かだし、それによって発展も促進されてきた。
ただ、時代の流れとともに置き去りにしてきたものの中に、本質的に保持すべきだったものが見えてきたならば、回収すべきでしょう。
かつてあったものとこれまでやってきたことをちゃんと総括した上で、これからの令和時代をつくっていきたい。
政治や行政への批判もいいけど、自分たちでできることはやろう
国が制度面から社会デザインを示すことも必要だとは思うけれど、個々人の心がけでやっていけることも多い。
今の時代、住む場所も就く職業も、そして生き方も、他者に強制的に決められはしませんしね。
僕がこの前まで勤めてた会社なんかだと、上からされる「働き方改革」は現場的には不満が多くて結局うまくいってなかった。
社会実験というか試行錯誤の最中なのでそれが悪いとは言わんけど、労働者が待ってるだけなのも違うとおもうんですよね。
そういう意味で、主人公が能動的に働き方に向き合ってる『わたし、定時で帰ります。』は見てて面白いし、吉高由里子はかわいい。