文武両道 臥薪嘗胆

日々の修業や生活の中で考えたことや思ったことを綴っていきます

武士道精神

ソードアート・オンライン アリシゼーション』面白かったですね。

やっぱりアインクラッド編と同じように脱出不能って世界観なのがよかったかな。ゲームやってるだけのエピソードはそこに人間ドラマがあろうとも、どうしたって緊張感欠けますしね。

ユージオとの男同士の友情もまた深みがありましたよね。

最終話で待望の二刀流にテンション上がりましたが、二刀流スキルで戦わなかったのはヒースクリフ戦の反省ということなんでしょうか。

物語後半は10月から開始ということで楽しみです。


貴景勝関が大関に昇進することが決まり、インタビューで「毎場所、力を出し切れていると自信を持って言える」と言っていて、本当にすごいなぁと思ってます。

だいぶ前に、「後悔するような相撲は一度も取ったことがない」という感じのことを言っていたときに、この人は違うな、と思ったものでした。

全力を出す、ということはとても難しくて、すごいことだと思います。

武士道精神

彼は口上で「武士道精神を重んじ・・・」という言葉を使っていました。

”武士道”というと「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」で有名な『葉隠』を思い起こされる方が多いでしょうか。

それとも新渡戸稲造の『Bushido』かな。

 

武道、士道、武士道という言葉には由来や使われる時代によって様々なニュアンスの違いがありますが、だいたいの人たちは「正々堂々」とか「卑怯なことしない」とか「礼儀を重んじる」とか、そんな感じで捉えてるでしょうし、それでいいと思います。

いわゆる大和魂とかとかぶる、日本的美徳みたいなところでしょうか。

でもそれを、同調圧力や不合理な伝統主義、誰かにとって都合のいい解釈であったりする時があるから旧時代的とか古臭い価値観と言われてしまうことも・・・

 

武道にたずさわるものとしては、修業をしていく中でしっかり咀嚼して、権威や世相からの抑圧的な規範ではなく、自己の内から発露する美意識として、おのおの武士道精神をもってもらいたいですね。

 

幕末の長岡藩家老、河井継之助を描いた司馬遼太郎の小説『峠』下巻あとがきより

「(前略)自分というものの生と死をこれほど客体として処理し得た人物も稀であろう。身についたよほどの哲学がなければこうはできない。

日本の戦国期のひとには、この種の人物はいない。戦国には日本人はまだ形而上的なものに精神を托するということがなかった。人間がなまで、人間を昂奮させ、それを目標へ駆りたてるエネルギーは形而下的なものであり、たとえば物欲、名誉欲であった。

江戸時代も降るにしたがって日本人はすこしずつ変わってゆく。武士階級は読書階級になり、形而上的思考法が発達し、ついに幕末になると、形而上的昂奮をともなわなければかれらは動かなくなる。

(中略)

人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の武士道倫理であろう。

(中略)

幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復しようとするのもそれであろう。」